歴史
渥美半島を横断する鉄道の構想は、陸軍第15師団が豊橋に置かれた後の時期にさかのぼる。1909年には雨宮敬次郎の出資を得て12人が軽便鉄道の建設を計画したが、実現しなかった。地元の有志は1918年に渥美軽便鉄道を設立し、1919年には計画を引き継ぐ形で民営の渥美電鉄が設立された。
渥美電鉄は1924年1月22日、高師 - 豊島間を最初の区間として開業し、直流600ボルトで電化した。同年中に延伸が相次ぎ、3月に神戸まで、6月10日には田原(現在の三河田原)まで達した。豊橋方面へは逆向きに建設が進められ、1925年5月に初代の新豊橋駅に到達、1927年10月1日には豊橋駅前からの最後の区間が開通してJR駅前まで列車が乗り入れるようになり、1927年10月11日に全通した。
鉄道は1920年代後半にかけてなお拡張を続けた。1926年4月10日には田原のさらに先、現在は廃止された黒川原までの区間が開業し、路線は半島部の奥へと延びた。半島先端の三河福江方面へのさらなる延伸も免許を受けたが、ついに完成しなかった。1930年代末に着工された工事は、第二次世界大戦の影響で中止された。
戦時下には路線の縮小と悲劇が訪れた。1940年9月1日、渥美電鉄は名古屋鉄道(名鉄)に合併され、路線は名鉄渥美線となった。鋼材不足のため、三河田原 - 黒川原間と多くの駅が1944年6月5日に休止された。日本の降伏の前日にあたる1945年8月14日には、3機のノースアメリカンP-51マスタングが天白付近で豊橋行きの電車を機銃掃射し、15人が死亡、さらに16人が負傷した。
1954年10月1日、名鉄は新豊橋 - 三河田原間を新たに設立された豊橋鉄道へ譲渡し、以後この路線は同社が運営している。休止していた三河田原 - 黒川原間は翌月に正式に廃止された。豊鉄のもとで路線は地域の通勤・通学路線としての役割を固めていった。急行が1965年10月1日に1日18本運転で導入されたが1985年9月1日に廃止され、貨物営業はすべて1984年2月1日に終了した。
現在の路線の姿は1990年代後半に整った。1997年7月2日には架線電圧が600ボルトから直流1,500ボルトへ昇圧され、車両はすべて元名鉄7300系28両に置き換えられて全車冷房化された。2000年からは元東急7200系を改造した1800系が導入され始め、現在では全車両がこの形式となり、3両編成で運行されている。2013年1月以降、これらは「カラフルトレイン」として、各編成を渥美半島を代表する花をテーマにしたイメージ色に塗り、その花のヘッドマークを掲げて運行している。自転車を持ち込んで乗車できるサイクルトレインは2011年9月に土休日で始まり、2017年7月には平日にも拡大された。
年表
- 1919渥美半島を横断する鉄道を建設するため、民営の渥美電鉄が設立される(1918年には地元の渥美軽便鉄道が設立されていた)。
- 19241月22日:渥美電鉄が高師 - 豊島間を最初の区間として開業し、直流600Vで電化。3月に神戸、6月10日に田原(現・三河田原)まで延伸。
- 19255月1日:豊橋方面へ延伸し、初代の新豊橋(師団口 - 新豊橋間)に到達。
- 19264月10日:現在は廃止されている三河田原 - 黒川原間が開業し、路線が半島の奥へと延びる。
- 192710月1日:豊橋駅前 - 新豊橋(初代)間が開業し、10月11日に全通。10月13日に終端駅が新豊橋駅(2代)に改称される。
- 19409月1日:名古屋鉄道が渥美電鉄を合併し、路線は名鉄渥美線となる。
- 19446月5日:戦時下の鋼材不足のため、名鉄が三河田原 - 黒川原間と多くの駅を休止。
- 19458月14日:日本の降伏前日、3機のノースアメリカンP-51マスタングが天白付近で豊橋行きの電車を機銃掃射し、15人が死亡、16人が負傷。
- 195410月1日:名鉄が新豊橋 - 三河田原間を新設の豊橋鉄道へ譲渡。休止中の三河田原 - 黒川原間は11月20日に正式に廃止。
- 196510月1日:ダイヤ改正で1日18本運転の急行を運転開始。
- 19842月1日:路線の貨物営業をすべて廃止。
- 19859月1日:急行を廃止。
- 19977月2日:架線電圧を1,500Vに昇圧し、車両を元名鉄7300系(計28両)に全車置き換え、全車冷房化。
- 200012月22日:元東急7200系を改造した1800系が営業運転を開始。後に全車両がこの形式となり、2013年1月からは花をテーマにした「カラフルトレイン」として運行される。
出典
事実確認日:2026年6月14日