歴史
この路線は国の事業として計画された。改正鉄道敷設法別表第51号に「東京府八王子ヨリ埼玉県飯能ヲ経テ群馬県高崎ニ至ル鉄道」として予定線に掲げられていた。私鉄の東武鉄道も同じ経路に路線を構想していたが、鉄道省が八高線を直轄事業として取り上げたことから、東武鉄道は高崎以遠を含め建設を断念した。したがってこの路線は当初から国鉄により、私鉄を買収するのではなく、両端から同時に建設された。
建設は北と南の両端から同時に始められた。まず八高北線が1931年7月1日に倉賀野 - 児玉間で開業し、続いて八高南線が1931年12月10日に八王子 - 東飯能間で開業した。両線はその後、互いに向かって段階的に延伸され、北線は1933年1月25日に児玉から寄居へ達し、南線は1933年4月15日に東飯能から越生へ、1934年3月24日には小川町へと延ばされた。
最後に残った小川町 - 寄居間が1934年10月6日に開業し、北側と南側の両区間が一本の直通路線として結ばれた。この日、南線が改称されて北線が編入され、八王子 - 倉賀野間の全区間が「八高線」となった。路線は首都の西方の丘陵の麓を縫うように走り、平野の縁に並ぶ製糸・市場の町々を結ぶとともに、これを横切る中央線・川越線・東武東上線・秩父線・高崎線を連絡した。
この路線は、いずれも戦後間もない時期に起きた、近代日本の鉄道史でも有数の大惨事として記憶されている。1945年8月24日、太平洋戦争終結の9日後、豪雨の中で2本の列車が多摩川橋梁上で正面衝突し、少なくとも105名が死亡した。それから2年足らずの1947年2月25日には、超満員の列車が脱線転覆し、184名が死亡した。これは死者数において第二次世界大戦後の日本最悪の鉄道事故とされている。
戦後の近代化は段階的に進んだ。旅客列車の蒸気運転は1958年11月20日に終わり、架線のある区間では電車運転に切り替えられ、1985年2月27日には全線にわたってCTC(列車集中制御装置)が導入された。日本国有鉄道の分割民営化に伴い、路線は1987年4月1日にJR東日本へ継承された。
現代における決定的な変化は、1996年3月16日に南側の八王子 - 高麗川間が直流1,500ボルトで電化されたときに訪れた。この日から路線は高麗川を境に南北で運転系統が分離され、南側の列車は川越線へ直通して川越まで運行を始める一方、非電化の高麗川 - 高崎間はすべてキハ110系気動車によるワンマン運転に置き換えられた。電化された通勤型の南と気動車による地方型の北という二分構造は、以後この路線を特徴づけている。その後の変化として、2022年には南側の電車にもワンマン運転が拡大され、2025年には高麗川以北の単行運転が終了した。
年表
- 19317月1日:八高北線が倉賀野 - 児玉間で開業。
- 193112月10日:八高南線が八王子 - 東飯能間で開業。
- 19331月25日:八高北線が児玉 - 寄居間を延伸。
- 19334月15日:八高南線が東飯能 - 越生間を延伸。
- 19343月24日:八高南線が越生 - 小川町間を延伸。
- 193410月6日:最後の小川町 - 寄居間が開業して全通。八高南線を改称し八高北線を編入して、八王子 - 倉賀野間が八高線となる。
- 19458月24日:太平洋戦争終結の9日後、豪雨の中で多摩川橋梁上で列車が正面衝突し、少なくとも105名が死亡。
- 19472月25日:超満員の列車が脱線転覆し、184名が死亡。死者数で第二次世界大戦後の日本最悪の鉄道事故とされる。
- 195811月20日:旅客列車の蒸気運転が終わり、架線のある区間で電車運転に切り替わる。
- 19852月27日:全線にCTC(列車集中制御装置)が導入される。
- 19874月1日:日本国有鉄道の分割民営化により、路線はJR東日本へ継承される。
- 19963月16日:南側の八王子 - 高麗川間が直流1,500Vで電化。高麗川を境に運転系統が南北に分離され、南側は川越線へ直通して川越まで運行を開始、非電化の高麗川 - 高崎間は全列車がキハ110系気動車によるワンマン運転となる。
- 20223月12日:南側の電車運転区間でワンマン運転を開始。
- 20253月15日:高麗川 - 高崎間の単行運転を終了。
出典
事実確認日:2026年6月14日