歴史
この路線を特徴づけるのは、瀬戸内海の島々を結ぶ橋梁群、瀬戸大橋である。鉄道は道路との併用橋の下部を通り、上部を走る瀬戸中央自動車道の下を走行する。駅はわずか六駅で、岡山県側の茶屋町・植松・木見・上の町・児島と、四国側の宇多津からなり、長い橋上区間は児島~宇多津間にある。会社境界は茶屋町から12.9キロの児島にあり、児島までの12.9キロがJR西日本、そこから宇多津までの18.1キロがJR四国の区間である。
瀬戸内海を横断する鉄道連絡は長年の悲願であったが、この計画は1980年代初頭の日本国有鉄道(国鉄)の経営危機に巻き込まれた。政府が国鉄の巨額の債務を抑えようとする中で、瀬戸大橋の鉄道部分が検討の対象となった。1983年7月21日、国鉄再建監理委員会が、見込まれる債務負担が期待されるわずかな旅客収入に見合わないとして、児島~坂出間の鉄道建設の中止を首相に提言したと報じられた。しかし四国側の政治的な働きかけによって中止はその後の緊急提言には盛り込まれず、事業は進められた。
路線は1988年に二段階で開業した。3月20日には茶屋町~児島間13キロが暫定開業し、「瀬戸大橋博'88」への観客輸送に合わせて供用された。4月10日には児島~宇多津間18キロが、坂出駅への短絡線とともに、瀬戸大橋の道路・鉄道併用システムの開通に合わせて開業した。これによって直通経路が完成し、本州と四国を結ぶ初の鉄道連絡が実現した。それまで旅客は宇野線と宇高連絡船を介して高松へと向かっていた。この開業は、四国内の高松~松山間の予讃線電化も促した。
高く風の強い海上の橋を高速で走ることには独自の課題があった。1989年7月22日から、橋上での気動車特急の最高速度が95キロ毎時から65キロ毎時に減速された。この制限は1991年11月21日に緩和され、新型の2000系気動車に限って橋上での最高速度が95キロ毎時に回復した。また、費用のかさむ新しい海上渡河として建設されたため、1996年1月10日から児島~宇多津間に加算運賃が設定され、橋を渡る際の追加料金として今に残っている。
巨額の渡河費用は長い財政的な尾を引いた。瀬戸大橋鉄道部の債務、約四千九百億円は、2001年にようやく返済された。その後、路線は現代の運賃・発券の仕組みに組み込まれていき、茶屋町~児島間は2007年9月1日にICOCAの利用エリアに、児島~宇多津間と坂出への短絡線は2014年3月1日に加わった。JR西日本は自社区間に路線の識別を与え、ラインカラーに青を、路線記号に「M」を割り当てた。
今日、本四備讃線は依然として本州と四国を結ぶ鉄道の大動脈であり、岡山~高松間の快速「マリンライナー」や、予讃線・土讃線へ直通する特急、そしてJR貨物の貨物列車を担っている。2025年3月15日からは、茶屋町~児島間の普通列車でワンマン運転が開始された。多くの旅客にとってこの路線は、瀬戸大橋を渡る鉄道の部分そのものであり、六つの駅と一つの大きな橋によって瀬戸内海を越えて全国の鉄道網を結ぶ、短いながら戦略的に重要な区間である。
年表
- 19837月21日:国鉄再建監理委員会が、見込まれる債務負担が旅客収入に見合わないとして児島~坂出間の鉄道建設の中止を提言したと報じられる。四国側の政治的働きかけで中止は緊急提言には盛り込まれなかった。
- 19883月20日:茶屋町~児島間13キロが、「瀬戸大橋博'88」の観客輸送に合わせて暫定開業。
- 19884月10日:児島~宇多津間18キロと坂出駅への短絡線が、瀬戸大橋の開通に合わせて開業。本州と四国を結ぶ初の鉄道連絡(それまでは宇野線と宇高連絡船)が実現し、高松~松山間の予讃線電化も促した。
- 19897月22日:瀬戸大橋上での気動車特急の最高速度が95km/hから65km/hに減速される。
- 199111月21日:2000系気動車に限り、橋上での最高速度が95km/hに回復する。
- 19961月10日:児島~宇多津間に加算運賃が設定される。
- 2001瀬戸大橋鉄道部の債務約四千九百億円の返済が完了する。
- 20079月1日:茶屋町~児島間がICOCAの利用エリアになる。
- 20143月1日:児島~宇多津間および坂出への短絡線がICOCAの利用エリアになる。
- 20253月15日:茶屋町~児島間の普通列車でワンマン運転が開始される。
出典
事実確認日:2026年6月14日