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宮福線

Miyafuku Line

宮福線(みやふくせん)は、京都府北部を内陸の福知山市の福知山駅から宮津市の宮津駅へと結ぶ営業キロ30.4キロメートルの鉄道路線である。京都丹後鉄道のネットワークの一部であり、WILLER TRAINSが第二種鉄道事業者として列車を運行し、第三セクターの北近畿タンゴ鉄道(KTR)が第三種鉄道事業者として鉄道施設を保有している。駅数は14駅、軌間は1,067ミリメートルの狭軌で、全線が単線、直流1,500ボルトで電化されており、認可最高速度は130キロメートル毎時である。北近畿ビッグXネットワークの一角を担い、内陸の福知山から海岸の宮津までを短絡して、京都・大阪方面から天橋立をはじめとする丹後半島への直通ルートを提供している。路線の起点は正式には宮津駅であるが、時刻表では福知山駅から宮津駅へ向かう列車を下り・奇数の列車番号としているなど、案内上は事実上福知山駅を起点として扱われることが多い。

与謝野町5 km
宮福線の路線図 · 境界: 国土数値情報(国交省)・GSI

歴史

福知山と宮津を結ぶ鉄道の構想は古くからあった。早くも1887年(明治20年)には関西鉄道が由良を経る経路で測量を行ったが実現せず、1892年(明治25年)には宮津側で宮津商港鉄道期成同盟会という運動が起こり、1896年(明治29年)には丹後鉄道株式会社の計画が、1906年(明治39年)には宮津電気鉄道株式会社の計画が出たが、いずれも経済的な事情などで断念された。その後、国の手により宮津線の建設が進んで宮津にひとまず鉄道がつながると、福知山から由良川沿いに鉄道を建設して国鉄線に連絡しようとする計画が起き、そのために北丹鉄道が設立された。同社は1919年(大正8年)5月に免許を取得し、1923年(大正12年)9月に福知山 - 河守間を開業したが、第一次世界大戦後の不況と資金難により、由良まで延伸する計画は断念された。

第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)5月に宮津鉄道建設促進期成同盟会が結成され、北丹鉄道の国有化と残された宮津 - 河守間の建設を求める運動が始まった。この結果、1953年(昭和28年)に宮津 - 河守間が鉄道敷設法別表に宮守線(みやもりせん)として追加され、予定線となった。その後、調査線、建設線へと昇格し、1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣から工事実施計画の指示が、1966年(昭和41年)3月25日に工事実施計画の認可が行われ、日本鉄道建設公団が同年10月1日に着工した。計画では宮守線は全長17.6キロメートル、5駅で、建設費は約32億5500万円と試算されていた。

工事は順調に進み、線内最長の全長3,215メートルの普甲トンネルが1971年(昭和46年)9月に貫通した。ところが、宮守線が接続するはずだった北丹鉄道は、乗客の減少と河守鉱山の休山により1971年に営業を休止し、1974年(昭和49年)に廃止されてしまった。これでは宮守線は盲腸線となって意味がなくなることから、京阪神と丹後を直結するルートとして福知山まで建設することを求める運動が起こった。これをうけて1975年(昭和50年)7月の鉄道敷設法改正により、計画は「宮津 - 河守」から「宮津 - 福知山」へと変更され、路線名も宮福線に改められ、1978年(昭和53年)12月には河守 - 福知山間が工事線となった。

しかし日本国有鉄道(国鉄)の経営悪化がこれを妨げた。新規地方交通線の建設凍結を定めた1980年の国鉄再建法が同年12月27日に施行され、宮福線の建設工事は中断された。建設続行の基準は輸送密度4,000人/日以上とされていたが、宮福線の開業後の推定輸送密度は約2,300人/日にとどまっていた。工事凍結の時点で用地取得率は56パーセント、路盤工事進捗率は55パーセントであった。これに対して地元は、あくまで鉄道として建設を続行することを考え、国鉄再建法の規定に基づき第三セクターでの引き受けを目指すことにした。

このために1982年(昭和57年)9月22日に宮福鉄道株式会社が設立され、同年12月24日に宮福線の地方鉄道免許を取得し、1983年(昭和58年)2月28日に工事が再開された。概算工事費は約218億1200万円に変更された。こうして宮福線は1988年(昭和63年)7月16日に福知山 - 宮津間で開業した。開業時には、全長3,215メートルの普甲トンネル、2,175メートルの下天津トンネル、2,103メートルの栃葉トンネルを含む10のトンネルを備えていた。開業によって京都・大阪から宮津・天橋立への直通ルートができ、北近畿の鉄道事情は大きく改善された。従来、たとえば京都から天橋立への移動は綾部駅と西舞鶴駅で二度のスイッチバックを伴っていた。その後、国鉄宮津線も特定地方交通線として転換対象となったことから、地元はこれも引き受けることとし、宮福鉄道を1989年(平成元年)8月1日に北近畿タンゴ鉄道株式会社へ商号変更し、1990年(平成2年)4月1日に宮津線をJR西日本から引き継いだ。

路線は当初は非電化で開業し、普通列車・快速列車が主体で特急列車の運転は極めて限られていた。その後、周辺のJR路線の電化が進み、高速道路網の整備も控えるなかで、特急列車を乗り入れさせ所要時間を短縮するために電化・高速化が検討された。鉄道整備基金の適用を受けるには最高速度を130キロメートル毎時とする必要があった。分岐器の交換と信号設備の改良による一線スルー化、曲線のカント向上と緩和曲線の延伸、電化などの工事が行われ、1996年(平成8年)3月16日に福知山 - 宮津間が直流1,500ボルトで電化・高速化開業した。京都駅発着の特急「はしだて」、新大阪駅発着の特急「文殊」「タンゴディスカバリー」などが運転を開始し、急行「みやづ」は廃止された。設計上の目標は130キロメートル毎時であったが、実際の運転速度は120キロメートル毎時である。JR西日本は電車を運用するが、自社の電車を持たないKTR・WILLERの列車は、電化区間であっても気動車で運行される。

2015年(平成27年)4月1日、鉄道運行事業が北近畿タンゴ鉄道からWILLER ALLIANCEの子会社であるWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)に移譲され、京都丹後鉄道を第二種、北近畿タンゴ鉄道を第三種とする上下分離方式による運行が始まった。同時に路線記号・駅番号(記号「F」)が設定され、厚中問屋駅は福知山市民病院口駅に改称された。宮津線とは異なり、宮福線そのものには新たな路線愛称は付けられなかった。今日、当線は宮津線へ直通して天橋立方面へ向かう特急「はしだて」「たんごリレー」などと、福知山 - 宮津間で運行される快速「大江山」を含むおおむね1時間に1本程度の普通・快速列車を担っている。

年表

  • 19239月:北丹鉄道が福知山 - 河守間を開業。福知山から由良川沿いに北へ延ばす初期の試みだったが、由良への延伸計画は資金難で断念された。
  • 19538月:鉄道敷設法別表に宮津 - 河守間が「宮守線」として追加され、予定線となる。
  • 19644月22日:宮守線の基本計画が決定。運輸大臣から鉄道公団に対し工事実施計画が指示される。
  • 1966建設開始:3月25日に工事実施計画が認可され、10月1日に日本鉄道建設公団が宮守線に着工。
  • 19719月:線内最長の全長3,215メートルの普甲トンネルが貫通。同年、北丹鉄道が営業を休止。
  • 19742月28日:北丹鉄道が廃止され、宮守線は接続先を失う。
  • 19757月:鉄道敷設法改正により計画が福知山まで延長されて宮福線に改称され、河守 - 福知山間が別表に追加される。
  • 198012月27日:国鉄再建法の施行に伴い宮福線の建設工事が凍結される。開業後の推定輸送密度(約2,300人/日)は続行基準の4,000人/日を下回っていた。
  • 19829月22日:路線を引き受けて完成させるため宮福鉄道株式会社が設立される。12月24日に宮福線の地方鉄道免許を取得。
  • 19832月28日:宮福鉄道のもとで宮福線の工事が再開される。概算工事費は約218億1200万円に変更された。
  • 19887月16日:宮福鉄道宮福線の福知山 - 宮津間が開業。全長3,215メートルの普甲トンネル、2,175メートルの下天津トンネル、2,103メートルの栃葉トンネルを含む10のトンネルを備えていた。臨時急行「みやづ」が運転を開始。
  • 19898月1日:宮福鉄道が北近畿タンゴ鉄道株式会社に商号変更。
  • 19904月1日:北近畿タンゴ鉄道が宮津線の運営もJR西日本から引き継ぐ。
  • 19963月16日:福知山 - 宮津間が直流1,500ボルトで電化・高速化開業。特急「はしだて」「文殊」「タンゴディスカバリー」が運転を開始し、急行「みやづ」が廃止される。
  • 20113月12日:JRとの直通運転が縮小され、特急「文殊」「タンゴディスカバリー」が廃止、特急「たんごリレー」が運転を開始。
  • 20154月1日:鉄道運行事業が北近畿タンゴ鉄道からWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)へ移譲され、京都丹後鉄道を第二種、北近畿タンゴ鉄道を第三種とする上下分離方式による運行を開始。路線記号・駅番号(「F」)が設定され、厚中問屋駅を福知山市民病院口駅に改称。ただし路線名は変更されなかった。

出典