歴史
当路線は単線2両交走式の鋼索鉄道で、最大480パーミルの勾配を200ボルトで運行し、所要時間は約7分である。麓では信貴線と接続し、山上の高安山駅では信貴山方面への近鉄バスに連絡する。ケーブルカーとしては珍しく、一般の歩行者が横断できる踏切が2か所あり、これは日本では近鉄の生駒鋼索線と当路線の2路線だけに見られる特徴である。運賃は鋼索線特有の特殊運賃で別に計算され、2015年8月1日からはPiTaPaやICOCAなどの交通系ICカードが利用できるようになった。
当路線は1930年(昭和5年)12月15日、信貴山電鉄が信貴山口駅 - 高安山駅間の鋼索線と、高安山駅 - 信貴山門駅間の山上鉄道線を開業して始まった。開業から1年足らずの1931年(昭和6年)10月29日には、運営会社が信貴山急行電鉄へと社名を変更した。鋼索線と平坦な山上線は一体の路線として運行され、信貴山を目指す参詣客や行楽客を輸送した。
1938年(昭和13年)8月1日には運営が大阪電気軌道に委託され、両線はそれぞれ信急鋼索線・信急平坦線と称され、両線を合わせて信急線と総称した。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)1月7日、両線は「不要不急線」として休止され、資材は供出された。その数か月後の1944年4月1日には、近鉄の前身である関西急行鉄道が、鉄道事業を休止していた信貴山急行電鉄を合併した。
平坦な山上線は復活せず、1957年(昭和32年)3月12日に正式に廃止されてバスに代替され、その跡地はのちに道路へ転用されて、現在は信貴生駒スカイラインの一部を構成している。一方で鋼索線は再建され、1957年3月21日に信貴鋼索線として運行を再開した。戦前の鋼索線用車両は1944年の休止時に解体されていたため、再開に際して日立製作所でコ7形の新車が製造され、「ずいうん」「しょううん」という愛称が付けられた。
1964年(昭和39年)10月1日、当路線は現在の西信貴鋼索線という名称になった。これは、信貴生駒電鉄が近鉄に合併され、同社が山の東側で運行していたケーブルカーが近鉄東信貴鋼索線と改称されたのに伴い、西側の路線も対をなすように改称されたものである。その東側のケーブル線は1922年に開業して信貴山下駅と山上を結んでいたが、1983年に廃止されてバスに代替され、信貴山へ通じる現役のケーブル線としては西信貴鋼索線が残された。
近年も当路線は信貴山への短い観光・参詣用のケーブルカーとしての役割を保ち、運行時間帯や運行間隔は麓の信貴線との接続に合わせて調整され、大晦日から元旦にかけての終夜運転も参詣客のために信貴線とともに毎年のように行われている。2022年(令和4年)8月6日には落雷により電気設備が故障して運休となったが、同年9月16日に通常ダイヤで運転を再開した。現在も西信貴鋼索線は、2両の車両が交走しながら山腹を昇降し、信貴山口駅と高安山駅の間を約7分で結んでいる。
年表
- 193012月15日:信貴山電鉄が鋼索線(信貴山口 - 高安山)と山上鉄道線(高安山 - 信貴山門)を開業。
- 193110月29日:運営会社の信貴山電鉄が信貴山急行電鉄に社名変更。
- 19388月1日:大阪電気軌道に運営を委託。鋼索線を信急鋼索線、山上鉄道線を信急平坦線と称する。
- 19441月7日:信急鋼索線・信急平坦線が不要不急線として休止し、資材を供出。
- 19444月1日:近鉄の前身である関西急行鉄道が、鉄道事業を休止中の信貴山急行電鉄を合併。
- 19573月12日:信急平坦線を廃止しバスに代替。跡地はのちに信貴生駒スカイラインの一部となる。
- 19573月21日:信急鋼索線を信貴鋼索線として運行再開。再開にあたり日立製作所でコ7形(「ずいうん」「しょううん」)を新造。
- 196410月1日:信貴生駒電鉄の近鉄合併に伴い東側の路線が近鉄東信貴鋼索線と改称されたのにあわせ、当路線も西信貴鋼索線と改称。
- 1983山の東側の近鉄東信貴鋼索線(1922年開業)が廃止されバスに代替され、西信貴鋼索線が現役のケーブル線として残る。
- 20158月1日:PiTaPaやICOCAなどの交通系ICカードが利用可能となる。
- 20228月6日:落雷により電気設備が故障し、運休となる。
- 20229月16日:始発から通常ダイヤで運転を再開。
出典
事実確認日:2026年6月14日