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大浦支線

Nagasaki Electric Tramway Ōura Line

大浦支線(おおうらしせん)は、長崎県長崎市において長崎電気軌道が運営する営業距離1.1キロメートルの軌道路線で、九州に位置する。軌間1,435ミリメートルで、直流600ボルト・架空電車線方式で電化されている。新地中華街停留場で同社の本線から分岐し、大浦海岸通停留場までは国道499号(大浦海岸通り)に沿って南へ向かい、そこから先は都市下水路沿いの大浦石橋通りを経由して、終点の石橋停留場へと至る。支線には停留場が5つあり、新地中華街から大浦海岸通までは複線、それより先は単線で、これは長崎電気軌道で唯一の単線区間である。支線を走行するのは、石橋停留場と蛍茶屋停留場を結ぶ5号系統のみである。

長崎市2 km
大浦支線の路線図 · 境界: 国土数値情報(国交省)・GSI

歴史

路線は大正時代に、南の海岸方面へ向かう短い延伸として始まった。1916年(大正5年)12月27日に千馬町から出雲町仮終点までの区間が開通し、出師橋・松ヶ枝橋の両停留場もこのとき開業した。半年後の1917年(大正6年)6月4日には仮終点が廃止され、約120メートル先に正式な出雲町停留場が開業して、支線は南端まで全通した。

その後、分岐点付近の路線網は調整され、停留場も数年のうちに改称された。1920年(大正9年)12月25日に築町停留場が廃止された。1930年(昭和5年)4月には二つの停留場が改称され、松ヶ枝橋が弁天橋へ、出雲町が大浦石橋へと改められた。

戦争は路線を不通に追い込んだ。1945年(昭和20年)8月9日、長崎市への原子爆弾投下により支線は不通となった。運行が再開されたのは1年余り後の1946年(昭和21年)12月11日のことであった。

戦後の数十年で、支線の経路と停留場は手直しされた。1961年(昭和36年)10月5日には大浦石橋方面の線路が移設され、起点が再開業した築町停留場へと変更されて千馬町停留場が廃止され、出師橋は市民病院前へと改称された。1965年(昭和40年)8月28日から9月30日にかけては、入江町付近で発生した陥没事故の影響により休止した。1980年(昭和55年)5月1日には、近くの大浦天主堂にちなんで弁天橋停留場が大浦天主堂下停留場へと改称された。

二十世紀の終盤にもさらに変化が続いた。1982年(昭和57年)7月の長崎大水害により支線は23日に運休し、25日に運行を再開した。1983年(昭和58年)6月10日には大浦石橋停留場が単に石橋停留場へと改称され、1990年(平成2年)6月17日には入江町停留場が廃止された。1999年(平成11年)8月31日には、かつて支線と長崎駅前方面を結んでいた7号系統が廃止され、支線の系統は5号系統のみとなった。

最も新しい変化は2018年(平成30年)8月1日に訪れ、システム全体で停留場が改称された。支線では、築町が新地中華街へ、市民病院前がメディカルセンターへ、大浦天主堂下が大浦天主堂へと改称された。今日の大浦支線は、5号系統が約8分間隔で運行される短い高頻度の連絡路であり、市南部のグラバー園・大浦天主堂・中華街の各地区へと観光客を運んでいる。そして今なお、長崎電気軌道で唯一、単線区間をもつ路線であり続けている。

年表

  • 191612月27日:千馬町 - 出雲町仮終点間が開通。出師橋・松ヶ枝橋各停留場開業。
  • 19176月4日:仮終点を廃止し、約120m先に出雲町停留場が開業(全通)。
  • 192012月25日:築町停留場廃止。
  • 19304月:松ヶ枝橋停留場を弁天橋停留場へ、出雲町停留場を大浦石橋停留場へ改称。
  • 19458月9日:長崎市への原子爆弾投下により不通。
  • 194612月11日:運行再開。
  • 196110月5日:大浦石橋方面の線路を移設。再開業した築町停留場へ起点が変更され千馬町停留場廃止。出師橋停留場を市民病院前停留場に改称。
  • 19658月28日 - 9月30日:入江町付近で発生した陥没事故の影響により休止。
  • 19805月1日:弁天橋停留場を大浦天主堂下停留場へ改称。
  • 19827月23日:長崎大水害により運休。7月25日に運行再開。
  • 19836月10日:大浦石橋停留場を石橋停留場へ改称。
  • 19906月17日:入江町停留場廃止。
  • 19998月31日:7号系統廃止。支線の系統は5号系統のみとなる。
  • 20188月1日:システム全体で停留場を改称。支線では築町を新地中華街へ、市民病院前をメディカルセンターへ、大浦天主堂下を大浦天主堂へ改称。

出典

事実確認日:2026年6月14日